私と社交ダンス 第1話 ホールドするのも大変
山口慶子
私が北条ダンススクール(その当時は上野ダンス教室と言っていました)のプロとしてスタートしたのは昭和39年、オリンピックが東京で初めて開催された忘れられない年です。
上野ダンス教室は上野松坂屋の裏にあったビルの地下で、少しうす暗く、しかし雰囲気のある喫茶店のようなダンス教室でした。
日本中がオリンピックで大変盛り上がっていましたが、私は新米先生でしたので、昼の12時から午後11時位まで恥をかき・汗をかきながらダンスのレッスンをしていました。
ですから教室にいる間はオリンピックどころではありません。
オリンピックは朝早く家で新聞とテレビのニュースを見て興奮していました。その頃は白黒のテレビでしたので、今のように美しくありません。
オリンピックの思い出としてはレッスンの合間に見た五輪の雲です。ジェット機で作られた5色の輪、とても不思議に思いましたが空に描かれた五輪の雲が美しくとても感動いたしました。
私がダンスのプロになった時代は「ダンス」と言うと、一般の人はチークダンスを踊ると思われており、私がダンス教室の先生になったと友達に言うと「いいね、男の人と手をつないで踊れて」そんな返事しか返ってきませんでした。
ですからその頃はダンスの先生になったとはなかなか友達にも、ましてや他人には言えません。
現在では「ダンスの教師」をしていると言うと、素敵ねとか羨ましいとか言われます。最近はダンスをオリンピックへ、と言われる時代になったのですから、随分ダンスに対する社会の目が変わってきたものだとつくづく思います。
その頃、ダンス教室ではチョークを持ってフロアーに足型を書き、生徒さんがその上に乗りながらフィガーを覚えていました。
チョークで書いた足型の上をまたぎながら動いているのですから、ホールドをして踊ろうとすると腰を引いてしまい、下ばかり見て、ホールドをしている手には汗がびっしょり、本人は一生懸命ダンスを踊っているのですが、まるでお相撲をとっているみたいで、とても優雅なダンスとはほど遠く、又その時代、女性のダンス教師はチュールで出来たペチコートとフレアスカートをはき、男性と脚が直接触れないように工夫をしたものです。
男女間の意識が変わったのだと思いますが、今は自然にホールドして踊ることが出来るようになり、とても教え易くなりました。