私達とエスパン

須田雅美

2010/5/1

私達は、新しい作品を誰かに振付けてもらうことで、引退してからもずっと新しい技術を学び、流行のステップやその踊り方を分析し、普遍的に大切なことを再確認したりしています。 海外の競技会でアマチュアの部を観察していると流行の傾向は分かりますが、彼らを指導しているコーチと直接関わることでさらに理解が深まります。おかげでプロアマ問わず、教えている生徒全てに「現在」のラテンダンスを教えることができます。

今回の留学目的は、エスパンに3つのショーを振付けてもらう。 エスパンは2週間前にお父様を亡くされ、母国ノルウェーでの葬儀を済ませて帰国したばかりでした。 その上ダンスウェアだけでなく、ファッションブランドの仕事も香港ファッションウィークに出展したりイタリアやスペインのファッションブランドからのオファーを受けたりと忙しく、 「最近この手の仕事(ショーの振付け)をあまりしてないから、どれぐらい私の想像力が働くか…でもやってみましょう。」 とレッスンが始まりました。

香港ファッションウィークでのエスパン

まずはルンバから。リチャード・ポーター先生に振付けてもらって檜山組の引退パーティーで踊ったUte Lemperの「Oblivion」。これはもともとエスパンに依頼をしてスケジュールが合わずに流れてしまった計画だったので、あらためて同じ音楽で依頼をしました。 コーチによって振付けの仕方は様々で、それ自体とても興味深いことです。初めての先生だったりすると戸惑うこともありますが、振付けや音楽表現のパターン、そしてその振付家特有のダンス用語を覚えてしまえば怖い物はありません。私達はいつも、振付家の創造力を刺激するよう、絶対に「できないと言わない」「すぐにカタチにする」をモットーとして挑みます。 エスパン作品は、振付けの1歩1歩が、教科書に載っている「ベーシックフィガーのバリエーション」と説明できるほど、ベーシックの理解を必要とします。そして位置関係が複雑に変化することが多いので、男性と女性のコネクションテクニックを駆使しなくてはなりません。それがガッチリ組み合わさった時、エスパンが望む音楽や動き、シルエットを2人の身体で表現できるという仕組みです。 ご存知の方も多いでしょうが、エスパンは元世界プロラテンチャンピオン。ドニー&ゲイナーも習っていた事があり、ラテンダンスの神様、故ウォルター・レアード氏を師と仰ぐ、世界のベストティーチャーです。 彼はもともとファッションセンスが良く、アマチュア時代から自分でデザインをした斬新な衣裳を着用していたのだそうです。ノルウェーで教えていた頃は、レッスン中にサラサラとデザイン画を描いてくれた…と聞きました。まだエスパンに習ったことがなかった頃、先輩を通してデザインをしてもらって作ったドレスがありました。ロジャースカップという競技会のライジングスター選手権で優勝した時のドレスです。白と黒にゴールドを配し、とてもエキゾチックでした。 「エスパンブランド」は世界中のダンサーの憧れ。最新デザインのドレスを着て、最新の振り付けを踊るトップダンサーの先輩方に憧れ、私達も自分達もいつかは絶対にエスパンに習いたい!と思っていました。 そういえば私にはエスパンとの縁がアマチュア時代にできていたようです。名古屋のある先生からパートナーに…とお誘いを受けた時、「ノルウェーのエスパン・サルバーグのところへ海外留学もしてもらいます。」と言われていたのです。その先生は当時、中部地区ではずばぬけて素敵な衣裳を着ていたのですが、それがエスパンのデザインだとは知る由もなく…。 結局その先生とは組むことなく、明先生と踊ることになったのです。それによって、エスパンにレッスンを受けていた佐藤明彦先生にレッスンを受けることになるなんて…人の縁とは不思議です。

その後、色んな事情で自分達では予想外ともいえるドニー&ゲイナーに習うことになるのですが、ある程度の基礎を固めてもらってチャンピオンになって…そんな時にエスパンが演出と振付けを手掛けるショータイムでソロを踊らせて頂くチャンスがやってきました。 ドニーとは全く違う感性と言語表現で責め立てられながら(…と感じていました)振りを付けてもらった時には頭も身体も戸惑ってしまってなかなか覚えられず、とっても苦労をしたのを今でも忘れられません。 ところが、その作品を踊った後に、私達のことを悪くしか評価したことがなかった日本人の先生に「とても良かった」と褒められ、「ん?こういうのも踊れるようになった?」と自分達の成長を自覚することができました。 そして、自分達のダンスを深めるためには彼が必要だと直感的に思ったのです。

引退パーティーでドニー・エスパンと

当時エスパンはローマに住んでいたので、最初にロンドンでドニーのレッスンを受けて、次の週はエスパンのレッスンを受け、またロンドンに戻ってドニーのレッスンと競技会…というスケジュールで数年間留学を続けました。 ドニーとエスパンは師弟関係にあったとはいえ、ドニーは私達がエスパンに傾倒することを嫌いました。「お前達の出来が悪い部分は全てエスパンのせいだ」…って感じのことを言うようになってきたので、「私達だって成長したくて新しい振付けに挑戦して頑張ってるのに、そんな言い方ないじゃん!」と泣きながら訴えたこともありました。その時のドニーのセリフは忘れもしない…「お前達のことはオレが一番良く知ってるんだぞ。」でした。ま、確かにそうなんですけどね。エスパンにもドニーとのやり取りを報告して、相談をしながら自分達のダンスを磨く努力をしました。 エスパンは「オトナ」なので、私達がドニーと切っても切れない関係だということを理解しつつ、今でも私達にレッスンをし続けてくれています。

特にセグエ「Ballad For Buenos Aires」は私達の転機とも言える作品となりました。 次の年は秋に引退を決めていたのにもかかわらず「あなた達にスーパージャパンカップで踊って欲しい曲があるんだけど…」と言われ、せっかく大好きな振付家に作品を作ってもらえるチャンスを逃すのはもったいない…と引退を延期してセグエ選手権だけに出場した作品が「Nocturne For The Blues」でした。

Ballad For Buenos Aires

引退後も、武道館での引退デモンストレーションのために「My One True Friend」を台湾で振付けてもらったり、ローマでレッスンを受けたり… 自分たちの引退パーティーで私がトゥシューズを履いて踊ったラベルの「Borelo」は異色の作品でした。 一番最近の作品は柳橋組の引退パーティーで踊るために振付けてもらった「La Luz Prodigiosa」です。 …そしてバリ島留学レッスン初日…久々の教授(エスパン)の振付け、英語でのレッスン…頭も身体もす〜っごく疲れました。クタでクッタクタになったぁ(**)(…続く)

La Lus Prodigiosa

「インドネシア料理を食べたい。」と告げると、「地元の人にも人気のお店です。」と工事中でお店の名前も外観も分からないレストランの裏手(駐車場)へ連れて行かれて「大丈夫か?」と不安になりました。 お店の人に案内されて入ると、中庭側には壁が無いオープンエアのレトロな雰囲気のレストラン。 天井には扇風機がたっくさんついている…確かに蒸し暑いよ。 明先生はナシゴレン、私はラーメンを注文。不味くないけど、どうってことない…何の感動もしない料理でした。 ラーメンは完全にインスタントだな…「サッポロ○○だ」と「自称」神の舌を持つ明先生は分析。 そのレストランの壁にはアルゼンチンタンゴパーティーらしき写真がたくさん飾られていて、「おや?こんな暑いところでくっついてダンスを踊ろうなんて人達がいるのかい?」と驚きました。

クタでクッタクタ

疲れたぁ